救世主
2012年 05月 19日
2ちゃんねるオカルト板
救世主は日本から現れる 4人目
842 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 11:07:43.69 ID:5DYIC2v/O
たとえばイジメ自殺事件があるとみんなはこう言うでしよ
「被害者が可哀想‥涙がとまらない」と
そのセリフによって「わたしは聖なる者です」
と証言したことになる
次いで「イジメた奴らの名前と住所公開しろ!」と
社会的制裁が待ってると脅しを言う
これは「聖なる私達が義の制裁を下す」と
証言したことになる
しかし人間には表裏がある
見えないところでは嫌いな人の陰口を言ったり、
気に入らない人を批判したり、
怨みを持っていて仕返しをしたりしてる人はたくさんいる
要するにイジメをしてるわけだ
これが獣
極普通の人が実は獣なんだ
でも普通の人達はみんな「わたしは聖なる者」と思い込んでる
なぜなら、自分が罪を侵してることに気がついてないから
罪を知らないならだよ
罪を知らないと善が分からない
善が分からないと真実が分からない
真実が分からないから偽善に気づけない
844 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 11:17:59.45 ID:5DYIC2v/O
自分のことを聖なる者とみんなが思い込んでるから
当然「わたしは救われるにふさわしい」と思い込んでる
つまり獣が救われると思い込んでるんだ
救世主を見分ける特別な証を
探し出そうという着眼点が既に間違えてる
見るべき点は自分の中に潜む獣
頭の中や心の中にある偽りを認めないと
罪を見つけ出せない
罪が分からないと善が分からない
善が分からないと真実が分からない
真実が分からないと救世主が
どういう存在なのかも分からない
救世主を見つけるための目は
自分の中にあるということ
850 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 12:13:14.93 ID:5DYIC2v/O
なぜイエスの前にバプテスマのヨハネが現れたのか
それは人々に悔い改めを促すため
なぜ悔い改めが必要なのか
それは罪を認め悔いることで善を知り、
身を改めてることで真実を知るから
イエスが救世主だと信じた人はみんな悔い改めた
そのお陰で救世主だと分かった
真実を悟ったからだよ
改めなかった人は誰もイエスが救世主だと分からなかった
むしろ偽者だと思い処刑してしまう
こんなにも分かる人と分からない人には差が生まれる
分からなかった人達はみんな現実的証拠を求めた
自分の身が救済されることのみを望んだ
敵を許さなかったんだ
つまり欲望と偽り、
それに闘争が救われることを望んだんだ
そんな獣が救われるわけがない
その末裔が今の人類
みんな口々に偽りを言い争いを好むのが末裔の証
この証(獣の烙印)が自分の中にあるのかないのか、
みんな自分で分かるはず
それに気づいたらそこからが悔いの始まり
858 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 19:06:17.91 ID:5DYIC2v/O
人間は不完全だからこそ、自らの不完全さを知りなさい
という目的のためにヨハネが現れた
そして不完全であり罪を侵す存在だからこそ、
その罪を拭うためにイエスが身を以て贖ってくれた
つまり人類は許されてる
しかし人類は他人を許さない
贖われても尚人類は、救世主を顧みず口々に偽りを言い
好き勝手に振舞い、地を汚し人々を惑わせ
欲望のうちに命を奪ってきた
その間ずっと猶予され救われて来たんだ
イエスはまだそのような人類の盲目のゆえに
十字架から降ろされてない
2000年間磔られたまま痛みに耐えてる
これを読んでるあなたのために耐え
あなたの気づきを待ってる
つまりイエスを降ろした人々もいる
それは自らの咎に気づき悔い改めた人々
その人達のうちに真実がある
その気づきが証となり、
真実なる救世主を見分ける目となる
868 :本当にあった怖い名無し:2012/05/17(木) 00:55:12.97 ID:1CCmGY/TO
ちなみに誰が罪人を決めるのか
それは真理が決める
だからこそ救世主は真理の存在ということになる
しかし誰が罪人なのかを判断してるのは人間
たとえばキリストは救世主ではないと
思ってる人の目の前にキリストが現れても、
その人はキリストを罪人と判断することになる
ではキリストが救世主であった場合、
その人は罪人と定められることになる
つまり定めるのは真理である救世主だが、
判断するのは人間に委ねられてる
そうやってその人に罪を見分ける目が
あるのかどうかが羊の証になる
要するに羊飼いが呼ばわるとき、
羊が飼い主を知っていることで、
そのもとへ集まることが出来るということ
目の前に羊飼いがいたとしても、
山羊は羊飼いのことを我が主人と判断しないので集まらない
そうやって選り分けられる
つまり神が好き勝手に裁きを下すわけではなく、
人間が神のもとへ集まるかどうかということ
神と同じ性質を
その人のうちに秘めているかが
定めの基準になってる
だからあなた次第と言われてる
その人の判断ゆえにひとりひとりが定めを受けることになる
救世主は日本から現れる 4人目
842 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 11:07:43.69 ID:5DYIC2v/O
たとえばイジメ自殺事件があるとみんなはこう言うでしよ
「被害者が可哀想‥涙がとまらない」と
そのセリフによって「わたしは聖なる者です」
と証言したことになる
次いで「イジメた奴らの名前と住所公開しろ!」と
社会的制裁が待ってると脅しを言う
これは「聖なる私達が義の制裁を下す」と
証言したことになる
しかし人間には表裏がある
見えないところでは嫌いな人の陰口を言ったり、
気に入らない人を批判したり、
怨みを持っていて仕返しをしたりしてる人はたくさんいる
要するにイジメをしてるわけだ
これが獣
極普通の人が実は獣なんだ
でも普通の人達はみんな「わたしは聖なる者」と思い込んでる
なぜなら、自分が罪を侵してることに気がついてないから
罪を知らないならだよ
罪を知らないと善が分からない
善が分からないと真実が分からない
真実が分からないから偽善に気づけない
844 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 11:17:59.45 ID:5DYIC2v/O
自分のことを聖なる者とみんなが思い込んでるから
当然「わたしは救われるにふさわしい」と思い込んでる
つまり獣が救われると思い込んでるんだ
救世主を見分ける特別な証を
探し出そうという着眼点が既に間違えてる
見るべき点は自分の中に潜む獣
頭の中や心の中にある偽りを認めないと
罪を見つけ出せない
罪が分からないと善が分からない
善が分からないと真実が分からない
真実が分からないと救世主が
どういう存在なのかも分からない
救世主を見つけるための目は
自分の中にあるということ
850 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 12:13:14.93 ID:5DYIC2v/O
なぜイエスの前にバプテスマのヨハネが現れたのか
それは人々に悔い改めを促すため
なぜ悔い改めが必要なのか
それは罪を認め悔いることで善を知り、
身を改めてることで真実を知るから
イエスが救世主だと信じた人はみんな悔い改めた
そのお陰で救世主だと分かった
真実を悟ったからだよ
改めなかった人は誰もイエスが救世主だと分からなかった
むしろ偽者だと思い処刑してしまう
こんなにも分かる人と分からない人には差が生まれる
分からなかった人達はみんな現実的証拠を求めた
自分の身が救済されることのみを望んだ
敵を許さなかったんだ
つまり欲望と偽り、
それに闘争が救われることを望んだんだ
そんな獣が救われるわけがない
その末裔が今の人類
みんな口々に偽りを言い争いを好むのが末裔の証
この証(獣の烙印)が自分の中にあるのかないのか、
みんな自分で分かるはず
それに気づいたらそこからが悔いの始まり
858 :本当にあった怖い名無し:2012/05/16(水) 19:06:17.91 ID:5DYIC2v/O
人間は不完全だからこそ、自らの不完全さを知りなさい
という目的のためにヨハネが現れた
そして不完全であり罪を侵す存在だからこそ、
その罪を拭うためにイエスが身を以て贖ってくれた
つまり人類は許されてる
しかし人類は他人を許さない
贖われても尚人類は、救世主を顧みず口々に偽りを言い
好き勝手に振舞い、地を汚し人々を惑わせ
欲望のうちに命を奪ってきた
その間ずっと猶予され救われて来たんだ
イエスはまだそのような人類の盲目のゆえに
十字架から降ろされてない
2000年間磔られたまま痛みに耐えてる
これを読んでるあなたのために耐え
あなたの気づきを待ってる
つまりイエスを降ろした人々もいる
それは自らの咎に気づき悔い改めた人々
その人達のうちに真実がある
その気づきが証となり、
真実なる救世主を見分ける目となる
868 :本当にあった怖い名無し:2012/05/17(木) 00:55:12.97 ID:1CCmGY/TO
ちなみに誰が罪人を決めるのか
それは真理が決める
だからこそ救世主は真理の存在ということになる
しかし誰が罪人なのかを判断してるのは人間
たとえばキリストは救世主ではないと
思ってる人の目の前にキリストが現れても、
その人はキリストを罪人と判断することになる
ではキリストが救世主であった場合、
その人は罪人と定められることになる
つまり定めるのは真理である救世主だが、
判断するのは人間に委ねられてる
そうやってその人に罪を見分ける目が
あるのかどうかが羊の証になる
要するに羊飼いが呼ばわるとき、
羊が飼い主を知っていることで、
そのもとへ集まることが出来るということ
目の前に羊飼いがいたとしても、
山羊は羊飼いのことを我が主人と判断しないので集まらない
そうやって選り分けられる
つまり神が好き勝手に裁きを下すわけではなく、
人間が神のもとへ集まるかどうかということ
神と同じ性質を
その人のうちに秘めているかが
定めの基準になってる
だからあなた次第と言われてる
その人の判断ゆえにひとりひとりが定めを受けることになる
# by hihuminokishi | 2012-05-19 19:08 | Trackback



